宮城県石巻市 岡埜栄泉「希望のどら焼き」


 私たち、岡埜栄泉は、戦前に東京に出た石巻出身の祖父が、上野広小路にある和菓子の老舗・岡埜栄泉総本舗で修行し、暖簾分けを許されて、石巻の湊の地に、お店を構えましたのがはじまりです。
3代目になる私が店を継いだ後は、4年前に蛇田にもお店を作り、生産設備の大半もこちらに移しました。
祖父の代からずっと、基本に忠実に和菓子を作り続けてきました。代々ずっと作ってきたどら焼は、おかげさまで、湊店と蛇田店で、多い日には、1日3,000個が完売する商品となり、「石巻のお土産ランキング」や、「石巻のうまいものランキング」でベスト3に選ばれるなど、多くのお客様にご愛顧いただいてまいりました。

 震災当時、湊店には、妻と80歳を超える母が店番をしていました。お客様も数人いらっしゃいましたが、地震発生後、すぐにお店からお客様を出し、店は閉めました。
80歳を超える母は、あまりの恐怖に、奥で丸まって隠れていましたが、そのとき偶然湊の近くにいた息子が、津波の危険を察知し、店に来て、母と妻を連れて一目散に蛇田店に向かってくれました。電話が中々繋がらなかったので非常に心配していましたが、息子からのメールで、みんなの無事と、蛇田店に向かっていることを知ることができ、とても安堵しました。

 震災から一週間後、ようやく湊店に戻ることができましたが、4~5mに達する津波が来たのでしょう。1階部分は、津波が突き抜けて、お店のショーケースなどは無くなっており、工場部分には津波によってぐちゃぐちゃにされた機械の残骸が残っていました。
湊地区は、海岸からわずか1kmしか離れておらず、今回の震災で、住宅のほぼ全てが全壊をしました。息子が機転を利かせ、母と妻を連れに行ってくれなければ、どうなっていたことかわかりません。

 蛇田店も、地震で物が落ちて壊れたりと大変でしたが、地震が収まり、とりあえず一旦従業員を自宅に帰しました。「大きな地震が起こったら海に近づくな」という昔からの教訓を思い出し、全員に「海には行くな」と伝えましたが、家族を探しに向かったのでしょう、従業員の1人が、津波に遭い、帰らぬ人となってしまいました。震災のあった3月で退社をし、自分の夢のために、新たなスタートを切るはずの従業員でした。

 震災後、湊店のほうは、損傷も激しく復旧には、相当な時間がかかるため、取り壊しすることにしました。周辺の被害も激しく、ほとんどの住民が土地を放棄して別のところに移っていきました。残った少数の方たちからは、また元の場所で再会して欲しいとのお声を頂いていますが、当分の間は、難しいのが現状です。

 蛇田店は、震災直後から電気・水道・ガスが全て止まりました。お店の隣の蛇田中学校などの周辺施設は避難所となりました。震災の時は、ちょうど春のお彼岸シーズンだったため、お店には、お彼岸用のお菓子がたくさん作ってありましたので、全部、近くの避難所に持っていって、避難している人たちに配りました。

 電気は、幸運なことに4日後に供給が開始されました。水道も一週間後には供給が再開されました。
ライフラインは、ある程度復旧しましたが、困ったのは原料でした。原料の入ってくる目処が、全くつかなかったのです。
しかし、避難所で我慢をしている人々のため、そして、作りたくても作れない同業者のため、今自分たちがすべきことを従業員一同集めて考えました。結果、とにかく早くオープンしようという結論になり、2011年3月31日に再びシャッターを上げることにしました。

 今はまだ、蛇田店を運営していくことで精一杯です。
何度か、湊のお店の常連のお客様が、蛇田店再開の話を聞き、訪れてくれました。ご来店いただいたときには、他に知っているお客様の安否を尋ねたりして、再会を喜びました。
湊から来てくれたお客様の中には、塩水を被って、錆だらけになった硬貨を持ってきた方もいらっしゃいました。過酷な体験をしながらも、わざわざ買いに来ていただいたお客様に、本当に感謝しました。
石巻の岡埜栄泉は、湊の人たちに、何十年もお世話になり、育てていただきました。その恩は忘れることはありません。いつか、ご恩返しに再び湊地区にお店を出せるよう、精一杯頑張っていきます。