宮城県石巻市 味じまん製菓「感謝の味じまんせんべい」


震災前は、長谷川製菓という名前でした。
創業は昭和18年。先々代がお菓子の製造を始め、いろいろなせんべいを作っていました。
昭和50年頃、経営者が先代に代わって新しく作り出したのが、「味じまんせんべい」でした。
これは、砕いたピーナッツがサンドされた瓦せんべいみたいな商品ですが、
おかげさまで、多くのお客様にごひいきいただき、震災前には、長谷川製菓では「味じまんせんべい」しか作っていませんでした。

昭和50年に先代が「味じまんせんべい」を開発してから約40年の間、ずっと「味じまんせんべい」一筋でした。
一日に焼いていた「味じまんせんべい」の枚数は6万枚。一日17時間、フルに工場を回して焼いても間に合わないような状態でした。
作った「味じまんせんべい」の5割は東北地方に出荷されていました。
特に宮城県内では「お茶うけのお菓子」として多くのご家庭に親しんでいただき、庶民の味と謳われていました。

3月11日、その日は運良く工場が休みでした。工場は東松島の赤井という石巻港に続く運河の側にありました。
地震発生時、私は自宅におりましたので、後から確認したことですが、地震発生後、津波は運河を遡り、川が氾濫しました。
工場は1mくらい浸水していました。工場が休みだったため、社員やパートさんに被害がなかったことは救いでした。

津波にやられた工場の後片付けをしてみると、設備関係は全く使える状態ではありませんでした。
海水により全て壊れてしまい、製造は不可能な状態でした。工場内は進入してきた泥で酷い有様でした。
使っていた機械関係は、全て「味じまんせんべい」を製造するために改良を重ねた特殊なものだったため、
使えないとなると機械を処分するしか道はありませんでした。
津波に壊された工場も崩して取り壊し、先代は、長谷川製菓の再建を諦めて、
これまでお世話になったお取引先さまに廃業の案内を出しました。

震災後は、5月頃まで固定電話が全く復旧しなかったため、
これまでのお取引先様と連絡を取ることができず、情報が全く入ってこない状態でした。
電話が復旧すると、たくさんのお取引先様から「本当に廃業するのか」と問い合わせが次々に入ってきました。

「あんなに人気があった『味じまんせんべい』なのに、無くしてしまうのはもったいない!」

一般の消費者の方々からも、次々と励ましの手紙や、再開を待っているという応援メッセージをいただきました。
パッケージの製造者表示を見てわざわざ連絡をくれたり。
どうやって連絡したらよいかわからなかったお客様は、購入したお店から問屋さんを経由してお手紙を届けてくださいました。

こういった応援メッセージは、非常に心に染みわたりました。
また、石巻の問屋「千坂」さんが再建を援助してくれたのも非常に励みになりました。
千坂さんは、廃業の案内を聞き、
「地元で大変親しまれていた『味じまん』を世の中からなくしてはいけない!」と何度も足を運んで先代を説得に来てくれました。

先代は結局廃業を決意したまま動きませんでしたが、
後を継いだ私は、「応援のメッセージをたくさん送ってくださったお客様への感謝」と
「震災前一日6万枚作っていた、それを待ってくれているお客様がいる、という使命感」と、
そして「千坂さんの熱意」に本当に感謝し、製造再開を決意しました。

製造再開といっても、簡単ではありませんでした。
これまで製造していた東松島の工場は更地にしてしまったので、
千坂さんの援助で津波の被害の心配のない佐沼の倉庫をお借りしました。

これまで使っていた機械がそっくり無くなってしまったので、一から機械を揃えました。
特殊な機械のため、設備の完成までに半年かかりました。

設備が完成し、ラインテストを2週間繰り返しました。
安定した品質、震災前の「味じまんせんべい」の品質をクリアできるよう、焼き方を何度も検証しました。
震災前に働いてくれていたパートさんたちも、さすがに遠い佐沼まで通うことは困難だったため、
現地で人を集め、一から製造の教育を実施しました。

そして、「長谷川製菓」から「味じまん製菓」と社名を変更し、
私は工場長として「味じまんせんべい」製造に取り組むことにしました。

製造再開後は、多くの馴染みのお客様からご注文をいただき、
再び「味じまんせんべい」を世の中に送り出すことができる喜びを噛みしめています。