宮城県石巻市 山徳平塚水産「希望のさば味噌煮」

 私たち、山徳平塚水産は、創業昭和6年、水産加工品、練り物などの製造を中心に、石巻の地で80年間事業を営んできました。
世界三大漁場の一つである「金華山沖」という漁場に恵まれ、私たちの石巻漁港には、常に新鮮で豊富な種類の魚が揚がっていました。
自然の豊かな味覚を、より美味しく、より味わい深く。私たちの目指す商品作りには、鮮度のいい状態で原料を加工することが必要不可欠です。そのため、加工に使う魚は、最も味が良いとされる「旬の時期」のものを使用し、遠洋で獲れた水揚げに時間がかかる魚ではなく、近海で獲れたものだけを使い、水揚げされたその日のうちに加工をしていました。
石巻の沿岸部で事業を営む、私たちだからこそ出来る、味への、原料へのこだわりでした。沿岸部には3つの工場を持ち、原料の調達から加工までを一貫生産していました。例えば、レトルトのおでん。一般的には、原料を仕入れてレトルトの加工をするだけのメーカーが多い中、私たちはすり身の製造から自分たちで行い、レトルトの加工まで、全てを自分たちの手で行っていました。

 3月11日、3つの工場は全て通常通り稼動をしていました。本社工場には、私を含め30数名おりました。地震発生後、全員建物から外に避難すると、初めて聞く「大津波警報」が流れました。電気が全て停まってしまっていたので、カーラジオを点けて、初めて「大津波警報」を知りました。「たいしたことはないのではないか」と高をくくっていましたが、とりあえず業務は終了とし、全員を自宅に帰しました。

 私と妻は会社の各所を点検した後、別々の車に乗り込み、自宅に避難をしました。
自宅に戻っている途中、渋滞に捕まってしまい、私は何とか抜け道などを駆使しましたが、津波が来ているのであれば自宅に戻るのは時間的に難しいと諦め、程近いところにある両親の家に避難しました。丁度到着するかしないか、という時にマンホールや排水溝から水が噴出し、驚き、これはただ事ではないと感じました。
別の車で逃げた妻は、逃げている途中で津波が迫ってくるのを見たそうです。渋滞にはまって全く動けなかったため、慌てて車を捨てて走って逃げましたが、津波に追いつかれてしまい、妻の感覚では200mくらい流されたそうです。流されている中、なんとか屋根を掴む事ができ、引き上げられて命が助かりました。

 津波が発生して丸2日は水が引かず、電気が来ていないために、何が起こっているのか情報を掴むこともできず、携帯電話や固定電話も一切使えなかったため、離れ離れになった妻とは音信不通でした。水が引かないので、探しに行くこともできませんでした。
水が引いた後、泥と瓦礫の中を探しに出掛けましたが、全く手がかりがつかめず、妻の生存は絶望、と考えていました。震災から3日後、ほとんど諦めていたとき、妻は自力で帰ってきました。このときの嬉しさは、これまでの人生で全く味わったことのないものでした。涙が止まりませんでした。

 一方で、先に避難した本社工場の従業員は、幸いにも全員無事でしたが、川口町にある工場の社員が一名、逃げ遅れて津波にさらわれ、犠牲になってしまいました。

 本社工場は、建物こそ残っていたものの、機械関係は全て津波により流失しておりました。冷蔵庫の中にあった製品や加工前の原料なども大半は流失してしまいました。何もかもを失い、完全に生産不可能な状態に陥ってしまったのです。

 当面は、津波の後の片付けに追われました。4月後半から、魚町で事業を行なっていた各企業が集まり、何班かに分かれて生き残った倉庫の中身の廃棄作業を始めました。
まだ気候が涼しかった頃は、倉庫の中身の腐敗もそれほど進行していなかったのですが、5月も半ば頃になると気温も上がり、腐敗が一気に進行していきました。
これまでの人生で嗅いだことのない本当に酷い悪臭で、立っているだけでもクラクラして倒れそうになり、作業がとても辛くなりました。
ハエの大量発生も酷く、昨日まで白かった壁が大量のハエが止まって黒く変わるほどの酷い環境の中、作業を進めて行きました。
6月の半ばになり、ようやく全ての被災した倉庫の中身の海上投棄が完了しました。

 一段落着いたところで、ようやく自社の復興について考えることができました。津波の被害で、工場も設備もなくなり、生産など出来ない状態です。社員も一旦解雇せざるを得ませんでした。

 「自社生産については、当分の間再開はできない。しかし、なんとか復興して、社員全員をもう一度再雇用し、みんなと一緒に山徳平塚水産のブランドを作り続けて行きたい。そのための足がかりを何か作り出さなければ。」

 そんな折、石巻専修大学の先生が、青森県八戸の会社を紹介してくれました。「石巻と八戸は魚種も共通で連携をしやすいから」ということでした。早速、6月末に木の屋石巻水産の社長と一緒に視察に訪れました。お互いに商品作りへの想いを語り合い、この人たちならば、私たちの味の、こだわりの再現に協力いただけると確信をし、「さばの味噌煮」「さばの生姜醤油煮」の製造協力をお願いすることになりました。

 また、震災前に非常に多くのお客様にご愛用いただいていた「おでん」も何とかもう一度お客様の食卓にお届けしたいと思い、これまで自社で製造していたレトルトのおでんの蒟蒻を作ってくれていた岩手県一関の工場にお願いをし、試作を重ねました。これまでのように自社で製造した練り物を入れることはできませんが、私たちのこれまでの味を再現した納得の行く商品を作ることができました。