宮城県女川町 マルキチ阿部商店「希望の昆布巻き(リアスの詩)」


私たち、マルキチ阿部商店は、牡鹿郡女川町で、手作りの「昆布巻き」を中心に製造、販売を行ってまいりました。

地元女川港は、全国でも有数のさんまの漁場として知られ、
女川で水揚げされる「さんま」と宮城県産の「昆布」を使い、
一本ずつ手作りで作る「さんまの昆布巻き『リアスの詩』」は宮城県水産加工品品評会で「農林水産大臣賞」も受賞しました。

手作りで作るからこそ挑戦できる「味染み」、「とろけるような食感」、「中心の素材の風味の活かし方」など、
自信を持ってお客様にお勧めできる商品を作ってまいりました。


3月11日、あのとき私は仙台の夢メッセで開催されていた「グルメコロシアム」というイベントに出展していました。
イベント初日に地震が発生し、交通機関は全て麻痺、女川までは50km以上もあるため、さすがに歩いて帰る事ができず、
親戚を頼り、車を借りて、地震発生の翌日、ようやく女川町にたどり着くことができました。

私がまず最初に目にしたのは・・・、生まれ育った女川の変わり果てた姿でした。
テレビ等でご覧になられた方もいらっしゃることと思いますが、
20mを超える津波に町ごと襲われた女川町は、無事な建物など一つもなく、
空襲の後のように、全てが破壊され、掻き回され、混濁した惨状でした。

3階建てや5階建てのビルが、基礎からもぎ取られてひっくり返っているのです。
ビルの屋上に乗っかっている乗用車や、崖の落石防止ネットに引っかかっている車を発見し、
何がどうしたらこんなことになるのか、全く理解ができない状況でした。

私たちの工場も、女川町の海岸から数十mの位置にありましたので、
津波の直撃を免れることは出来ず、全てが津波によって破壊され、流されてしまいました。
工場や設備だけでなく、女川町内にあった自宅も全てを失いました。

女川町では人口約10,000人のうち、今回の津波による死者・行方不明者の数は950人を超えます。
およそ人口の1割、10人に1人の割合です。
「一家全滅です…」、「まだ遺体が見つかっていないのだが、もう耐えられずにお葬式を済ませました」など、
これまでの日常では聞くことがなかった異常な会話が、未だに女川町のあちこちで聞かれます。

そんな中で、従業員に一人の死者も出なかったことは、私たちの唯一の幸運だったのかもしれません。
地震発生後、津波が女川町に到達するまで、15分もかからなかったと聞きますが、
避難が迅速に行われたため、その間にみな無事に避難することができました。


女川に戻ってからは、とにかく生きることに必死でした。
工場も自宅も失ったため、はじめは避難所で生活をしました。
避難所は同様に家も職も失った人で溢れており、そこには「希望」と呼べるものは全くありませんでした。

しばらく経って、高台にあったため無事だった親類の家でお世話になることになりました。
震災後、しばらく女川は携帯電話が不通でしたが、携帯が繋がり、まずかかってきたのが、お客様からの電話でした。
「女川が酷い状態になっているのをテレビで見て、心配していた。マルキチさんも全滅したかと思った。
でも、生きていて良かった。大変だと思うけど、マルキチさんの昆布巻きを待っているから、頑張って欲しい」。
こうした内容の電話をいくつも頂きました。「自分達の商品を待ってくれている人がいる。」それは凄く励みになりました。


ところが、この頃はまだ会社を復興させるなど、全く考えられる状況ではありませんでした。

しかし、そんなある日のこと、私のもとに転機が訪れました。
女川の観光施設「マリンパル女川」には直営店を出していたこともあり、
私は震災後、ボランティアの方々とマリンパルの瓦礫撤去作業を行っておりました。
直営店には「農林水産大臣賞受賞」の際、記念に作成した木製の看板がありましたが、
今回の津波で、商品諸共、全てが流されてしまいました。
元々直営店のあった場所にも、瓦礫や泥が大量に残されており、片付けはとにかく大変でした。

そんなある日のこと、撤去作業を進めていたところ、泥の中から、なんとその看板が発見されたのです。
ビルが流されるほどの大津波。木製の看板ですから、
普通に考えれば、流されてしまっていてもおかしくないのですが、
それが泥の中に埋まって、私のことを待ってくれていたのです。

これは「奇跡だ!」と思いました。神様に「この看板をもう一度掲げよう! 頑張ろう!」と言われている気がしました。

とはいえ、「お店の看板」が戻ってきたといっても、
工場から設備、原料まで全てが無くなってしまったのですから、
通常であれば、簡単に製造を再開できるわけではありません。

通常であれば・・・

「奇跡」が、続いて私のもとへ訪れました。
   
なんと、昆布巻きの原料が、津波の被害を免れ、残っていたのです。
昨年、旬の時期に買い付けた新モノの「さんま」の原料は、高台にある倉庫に保管していたため無事でした。
そして、昆布巻きの「昆布」は、津波被害のほとんどない唐桑地区にある母の実家の蔵に保管されており、無事だったのです。


伝統の味を作り出す「秘伝のタレ」はさすがに津波で流されてしまいましたが、
「さんま」と「昆布」があれば、また美味しい「昆布巻き」を作ることが出来る。

「マルキチさんの昆布巻きを待っている」と言ってくれたお客様に、再び商品をお届けすることができる。
そう考えると、全身に「希望」がみなぎりました。



まずは製造できる場所を探しました。
女川町は全ての企業が壊滅しているため、ここでの製造再開は断念せざるを得ませんでしたが、
震災前からご縁のあった「希望のかつおぶし」で復興を目指している丸平かつおぶしさんから場所のご紹介を頂き、
石巻で製造場所を間借りし、7月の半ば頃に製造を再開することができました。
震災から実に4ヶ月が経過していました。